年表
由緒
利生の銭についての話
この水間寺には三重の塔があるが、これが利生の銭に因縁の話がある。或る年江戸の名も知れない廻船問屋が一貫の利生の銭を借りて帰ったが、なかなか返済に来ない。
とうとう13年目に馬の背に13年間の元利を揃えて参拝した。
よってこの銭をもってこの塔を建立したという話である。後にこの人は網屋という人だ と判明した。
この水間寺の利生の銭については、江戸時代の有名な小説家、井原西鶴の「日本永代蔵」(1688年刊日本の経済小説の先駆けといわれている)にも取り上げられている。
現在の三重塔は、天保5年(1834年)岸和田藩主 岡部長愼により再建されたものである。
利生とは、仏様が衆生に与える利益のことで、「利生の銭とは」水間寺に初午詣(旧初午の日)をして、来年の初午の日にはこの利生の銭を倍額にしてお返しする事によって、ご利益を頂戴するものです。 現在では旧初午の日にご祈祷を受けられた方に「利生銭入り餅」が授与されます。
お夏清十郎
約700年前、伏見天皇の勅使御参侯の随身に山名清十郎という美男子ありしが、当日勅使饗応のために村下の豪農楠右衛門の娘、お夏が出仕し、これまた鄙にまれな美女にて、いつしか相い思いつつもその場は別れ、その後、お夏は境内愛染明王に毎夜祈願致し、その甲斐あってか間もなく南北朝の戦いが始まり、清十郎は先陣を承り、住吉渡辺橋に戦功を立てしも、敗者の身となりしを聞き、お夏は愛染橋の加護により、奇しくも住吉の松原にて清十郎に巡り会い、水間に手に手を取って帰り、仲睦まじく想いを遂げ、苔下の露と消ゆと伝う。
愛染堂
お夏清十郎由来より、現在の愛染堂では『恋人の聖地』として選定され、若い人々を迎え入れるための新たな観光スポットとなっています。
水間寺の由来
水間寺由来記より
聖観音(当寺のご本尊)出現の瀧-「降臨の瀧」
聖武天皇42歳の厄年に夢のお告げ
水間寺の創建は、人皇四十五代聖武天皇が四十二才のとき、ご病気にかかられ、なかなかご平癒になられなかったその時、夢のお告げがありました。
「この奈良の都より西南の方角にあたって観世音菩薩がご出現なされる。よってこの観世音の尊像を都にお供をしてご信仰申せ」とのこと。聖武天皇は、勅命をもってこの仏像を探すことを命ぜられました。
行基菩薩が勅命を受け、この地に導かれる
その当時、生き仏として庶民より最も信頼されていた行基菩薩にこの大切な仏像を探すことを依頼されました。
行基菩薩は、この仏様を求めて、この奈良の地を発たれ、西南方の地を歩かれ、そうして到達したのがこの水間の地でありました。
当時この地は今は想像も出来ないような山間部で、霊峰葛城の峯よりこんこんと流れる水の間に巨岩があり、原始林に囲まれた神域でありました。
行基菩薩が聖観音像を拝受
このとき突然「十六人の童子」が出現し、誘うともなく行基菩薩を谷間に導きました。
そこにはこの谷間の美しい水の流れる巨岩の上に白髪の老人がおり、手に一体の仏様を捧げ、「汝を待つこと久し」と言って、自分の手首を自ら噛み切って、その尊像を行基菩薩に手渡し、そうして自分は龍となって昇天したと由来記に記されています。
聖観音像が当寺のご本尊として祀られる
この仏様は、一寸八分(約6cm)の閻浮陀金の聖観世音菩薩で、謹んでこれを天皇に捧げたところ、病は全快されました。
聖武天皇は、この仏様を現地にお祀りするようにとの勅命を下し、その命をもって水間に行かれた行基菩薩は、堂宇を建立し、厄除け観音として庶民にも信仰されるように努められました。
ご詠歌
みなかみは清き流れの水間寺願う心の底はにごらじ