歴史

年表

  • 天正十三年豊臣秀吉の根来寺征伐に先立ち、貝塚の諸城・水間寺炎上 陥落する
  • 天正十三年水間寺梵鐘を貝塚本願寺に売却する
  • 正平六年楠木正儀(まさのり、楠木正成の三男)水間寺の別当職と寺領を安堵し、軍勢等の乱入狼藉を禁止した(井手文書)
  • 建久元年七堂伽藍が完成する
  • 天平勝宝九年孝謙天皇仏舎利塔を多宝塔に安置する(水間寺古記)
  • 天平十六年聖武天皇の勅命により、行基菩薩が水間寺を創建する
  • 戦国時代以降
  • 天保五年三重塔が再建される
  • 文政十年岸和田藩主岡部長愼により本堂が再建される
  • 天明四年怪火により本堂、諸堂焼失する
  • 元禄元年井原西鶴「日本永代蔵」を刊行し、水間寺利生の銭の話を紹介する
  • 寛文元年三重塔が完成する
  • 文禄五年岸和田城主小出秀政が本堂を再興する
  • 江戸時代以降
  • 昭和四十八年武覚圓貫主に就任する(平成元年退任)
  • 昭和四十五年日本万国博覧会に千本搗きが出演する
  • 昭和四十年馬の像が寄進される
  • 昭和三十六年今春聴東光貫主に就任する(昭和四八年退任)
  • 昭和前期
  • 昭和六十年本堂前香炉堂を創設する
  • 昭和五十八年弁天堂増築工事を行う
  • 昭和五十六年愛染堂改修落成法要を行う
  • 昭和五十三年常寂光堂創建落慶法要を行う
  • 昭和五十三年平和観音像開眼法要を行う
  • 昭和五十二年寺格改定により特別寺となり、別格本山と称する事を得る
  • 昭和五十年沖縄海洋博覧会に千本搗きが出演する
  • 昭和後期
  • 平成十四年梅山龍圓、貫主に就任する(平成二十八年退任)
  • 平成十一年本堂屋根大修復工事が完成し、落慶法要を行う
  • 平成元年三重塔屋根吹き替え昭和大修理落慶法要を行う
  • 平成元年山田恵諦天台座主に開山以来初の来山を仰ぎ、挙行する
  • 平成元年井深観譲貫主に就任する(平成十四年退任)
  • 平成前期
  • 平成二十八年武覚超、貫主に就任する
  • 平成二十七年食堂新築工事が完成し、落慶法要を行う
  • 平成二十五年護摩堂建て替え工事が完成し、落慶法要を行う
  • 平成二十二年厄除け橋の新設架替え工事が完成し、渡り初め法要を行う
  • 平成後期

由緒

利生の銭についての話

この水間寺には三重の塔があるが、これが利生の銭に因縁の話がある。或る年江戸の名も知れない廻船問屋が一貫の利生の銭を借りて帰ったが、なかなか返済に来ない。
とうとう13年目に馬の背に13年間の元利を揃えて参拝した。
よってこの銭をもってこの塔を建立したという話である。後にこの人は網屋という人だ と判明した。
この水間寺の利生の銭については、江戸時代の有名な小説家、井原西鶴の「日本永代蔵」(1688年刊日本の経済小説の先駆けといわれている)にも取り上げられている。 現在の三重塔は、天保5年(1834年)岸和田藩主 岡部長愼により再建されたものである。

利生とは、仏様が衆生に与える利益のことで、「利生の銭とは」水間寺に初午詣(旧初午の日)をして、来年の初午の日にはこの利生の銭を倍額にしてお返しする事によって、ご利益を頂戴するものです。 現在では旧初午の日にご祈祷を受けられた方に「利生銭入り餅」が授与されます。


お夏清十郎

約700年前、伏見天皇の勅使御参侯の随身に山名清十郎という美男子ありしが、当日勅使饗応のために村下の豪農楠右衛門の娘、お夏が出仕し、これまた鄙にまれな美女にて、いつしか相い思いつつもその場は別れ、その後、お夏は境内愛染明王に毎夜祈願致し、その甲斐あってか間もなく南北朝の戦いが始まり、清十郎は先陣を承り、住吉渡辺橋に戦功を立てしも、敗者の身となりしを聞き、お夏は愛染橋の加護により、奇しくも住吉の松原にて清十郎に巡り会い、水間に手に手を取って帰り、仲睦まじく想いを遂げ、苔下の露と消ゆと伝う。

愛染堂

お夏清十郎由来より、現在の愛染堂では『恋人の聖地』として選定され、若い人々を迎え入れるための新たな観光スポットとなっています。


水間寺の由来

水間寺由来記より

聖観音(当寺のご本尊)出現の瀧-「降臨の瀧」

聖武天皇42歳の厄年に夢のお告げ

水間寺の創建は、人皇四十五代聖武天皇が四十二才のとき、ご病気にかかられ、なかなかご平癒になられなかったその時、夢のお告げがありました。
「この奈良の都より西南の方角にあたって観世音菩薩がご出現なされる。よってこの観世音の尊像を都にお供をしてご信仰申せ」とのこと。聖武天皇は、勅命をもってこの仏像を探すことを命ぜられました。

行基菩薩が勅命を受け、この地に導かれる

その当時、生き仏として庶民より最も信頼されていた行基菩薩にこの大切な仏像を探すことを依頼されました。 行基菩薩は、この仏様を求めて、この奈良の地を発たれ、西南方の地を歩かれ、そうして到達したのがこの水間の地でありました。
当時この地は今は想像も出来ないような山間部で、霊峰葛城の峯よりこんこんと流れる水の間に巨岩があり、原始林に囲まれた神域でありました。

行基菩薩が聖観音像を拝受

このとき突然「十六人の童子」が出現し、誘うともなく行基菩薩を谷間に導きました。
そこにはこの谷間の美しい水の流れる巨岩の上に白髪の老人がおり、手に一体の仏様を捧げ、「汝を待つこと久し」と言って、自分の手首を自ら噛み切って、その尊像を行基菩薩に手渡し、そうして自分は龍となって昇天したと由来記に記されています。

聖観音像が当寺のご本尊として祀られる

この仏様は、一寸八分(約6cm)の閻浮陀金の聖観世音菩薩で、謹んでこれを天皇に捧げたところ、病は全快されました。
聖武天皇は、この仏様を現地にお祀りするようにとの勅命を下し、その命をもって水間に行かれた行基菩薩は、堂宇を建立し、厄除け観音として庶民にも信仰されるように努められました。

ご詠歌

みなかみは清き流れの水間寺願う心の底はにごらじ